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学連の歴史

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学生スキーとインターカレッジの変遷

秩父宮杯と戦前のインターカレッジの位置付け

戦前は20代の若者で自由な時間とある程度の経済的余裕のある者は大学生だけであった。よってスキー競技者が学生または学生出身者が中心となったのも極めて自然であった。また、現在と異なり大学へ進学するものは限られており、大学生は社会のエリート層であった。従って、戦前はインターカレッジは広く社会的関心を集め、その権威はスキー界のみならず社会的にも極めて高いものがあった。それは、既に第一回大会において朝香宮杯(リレー)、文部大臣杯(複合)、内務大臣杯(40km)、鉄道大臣杯(ジャンプ)が授けられていたことによっても例証される。昭和3年1月17日の東奥日報は次のような記事を載せている。「文相カップ大鰐へ到着インターカレッヂの優勝者へ中谷文部省事務官補は文相カップを携帯して15日朝大鰐に到着した。右カップはインターカレッヂの優勝者に綬輿されるものである」さらに、第一回大会に来臨された秩父宮殿下は、学生選手の健闘ぶりに感銘され、大会中に秩父宮杯を下賜された。以後インターカレッジは「秩父宮杯争奪戦」として行われる事になった。しかし残念な事に、これらはすべて戦争中貴金属供出に協力するため、国に返納し失われた。そして、秩父宮杯の復活は、戦後50年、平成7年(1995年)まで待たなければならなかった。

戦中・戦後の大会

昭和18年(1943年)、第16回大会を最後に学生スキー大会は一時途絶える。既に1941年太平洋戦争が始まっており、16回大会では戦時下の態勢として、従来の種目に加え、斥候競争など戦技スキー種目が採用された。実際に学生選手も実弾射撃を行ったという。しかし、軍隊内部では、スキーは移動の補助手段とした利用されたに過ぎず、スキーの機動性を生かした本格的な戦闘部隊が造られる事はなかった。我が国の主要戦線が南方であったこともあろうが、北欧のスキー狙撃兵部隊や、スイスの山岳警備隊のようなスキーを使った戦闘部隊が重要な役割を果たしていたのと対照的である。戦争中17回大会、18回大会、19回大会は開かれていない。しかし、これは回数に数えている。当時在京の学生スキー連盟の各校有志が毎年1月に集まり、仮想の代表選手の名簿を持ちよって懇談し、戦争が終わったならば必ず大会を再開する事を確認しあって別れたという。そこで、大会は中断していないのであるという意志を表現するために、敢えて行われていない大会に回数をつけることを決めたのである。しかし、出征した学生選手達の多くは異国の地で斃れ、再び故国の雪を踏む事はなかったという。

戦後最初の大会

第20回大会が昭和22年1月小樽で開かれた。集まったのは、早稲田大、法政大、明治大、立教大、慶応義塾大、日本大、北海道大、東京工業大、専修大、小樽経専、日本体専、久我山工専、高田師範、青森医専、高田師範、岩手師範、北海道第二師範、北海道第三師範、室蘭工専の19校である。まだ戦後の混乱期から脱しきっていないこの時期に、スキーの大会を開き、食糧持参で40時間もすし詰めの列車に乗って小樽まで出かけるという先輩達の熱意に接すると、言うべき言葉を失う。

関西からの参加

昭和24年(1949年)第22回大会から初めて関西から、関西大学が参加する。関西の大学でインターカレッジに参加する大学が少なかったのは当時既に関西学生スキー選手権大会が行われていたため、そちらに力を入れる大学が多かったためであろう。実際何回かは、関西学生大会は場所こそは異なるがインターカレッジと同じ日に開かれることもあった。24回大会では立命館大学、大谷大学、25回大会からは関西学院大学、同志社大学の加盟があり関西からの学校が次第に増えてゆく。

新制大学の発足とスキーの普及

戦後の学生改革により戦前の高等学校、高等専門学校(工業、商業、医学、鉱業、水産等)、師範学校が統合し新制大学となり、全国の大学の数はいっきに増えた。昭和24年180校。しかし、これらの学校がすぐに加盟大学の増加につながったわけではない。昭和30年代を通じての学生スキー連盟への加盟大学数は漸増である。創立から戦後しばらくは、学生スキー連盟は、いくつかの大学のOBが常務委員という世話役となり、学生代表と相談をしながら運営してきた。このようなことが可能だったのは、参加大学も少なく、いわば皆顔見知りであったからである。しかし参加大学が多くなるとクラブ的な運営は不可能である事が明らかになった。そこで昭和25年より、会則を制定し役員を定め組織を整える事になった。とはいえ、日本人全員が困窮していたこの時期に、無償どころか費用を持ち出しの理事を引き受けてくれる人は少なかったという。しかしその中にあっても少数の熱心なOB達の尽力によって学生スキー連盟は運営され、インターカレッジは続けられてきた。

参加校数が急増を始めるのは昭和40年からである。これは経済の高度成長期の後半に当り一人当り国民所得が急速に増加しはじめたのと軌を一にしている。雪国に立地していない大学の学生が競技スキーをするには、用具の準備や、雪国での長期にわたる合宿などかなりの費用を要するものである。所得の増加は、従来有力私立大学か、雪国に立地している学校でしか出来なかったスキー競技が、一般の大学に普及してゆく基盤を作ったものと推測される。

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