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学生スキーとインターカレッジの変遷
戦前の競技会における種目
当時行われた競技種目は第10回大会にアルペンが正式種目となるまでは、クロスカントリーとジャンプのみであった。昭和3年(1928年)全日本スキー連盟(以後「SAJ」と略記する)「スキー年鑑」に国際スキー聯盟(以後「FIS」と略記する)スキー競技規則が掲載されているが、それによると競技の正式種目は、(a)ジャムプ競技(b)長距離競争15km-18km(c)ダウエル競争30km-60km(d)複合ジャムプ及び長距離競争、となっており。アルペン種目は無い。
FISがアルペンを正式種目として認定するまでは、長いことFISの公式見解は「アルペン競技は正確にいえばスポーツではない。物理現象というべきものである。斜面の上に立ってスキーを下に向ければ、人間の意志と無関係に滑り出す。体力はそこに作用を及ぼさない。その種のものをスポーツとはみなせない。スポーツ的でないものを競技種目にすることはできない。」というものであった。しかしそのFISも1930年(昭和5年)アルペンを正式種目として認め、それから7年後、アルペン種目が昭和12年(1937年)インターカレッジ第10回大会で行われた。これが日本で初めて行われたアルペン競技であった。ジャンプについては初期の頃から既に選手間の技術の懸隔は甚だしく、トップクラスの選手と大学・高専に入ってから始めた選手を同列に扱う事は大変危険を伴うため、はやくも昭和8年(1933年)、第6回大会から1部2部と分けて競技が行われるようになっている。当時のジャンプ競技のありさまを伝える記事を昭和12年朝日新聞より引用しておこう。
「二部の実力は一部に比して全然問題にならないほど貧弱なものであった。一例を挙げるならば飛躍競技で二部のスタートは80mの地点であったが15mの飛距離しか出し得ない選手があった。一部では先ず40m以上が普通で最長距離は龍田君の61mだ、スタートが違うとはいえ15mと61mの差が同一の飛躍台で開くのであるから雲泥の差がある」 この記事を見てもわかるように、少数の例外を除いてはその頃から既に旧制中学校(現在の高校にあたる)までにスキーに慣れ親しんでいた選手とそうでない選手の間の溝は存在していたのである。ではこの雪国出身の選手と雪のない地方出身の選手の技量の大きな格差はどこからくるものであろうか。常識的には雪国においては冬季日常的に雪に接する事ができるからであると考えられているが、それだけではない。雪国の初等中等教育の学校は夏休みが2週間短い代わりに冬休みが2週間長く、この点からもスキー練習では雪のない地方に比べ圧倒的に有利であった。この状況は今も変わらない。ともあれこうして、それぞれを見ればクロスカントリー、ジャンプ、アルペンという大いに異質なスポーツが、スキーで滑るという唯一の共通点をもってスキー大会として組織され、さらに学校対抗戦として行われる事になった。
一般スキーの動向レジャーとしてのスキーも既に昭和の始めから普及し始めた。当時のスキー場は小さな岡の木を切り開いたなだらかなスロープにすぎなかった。人々はスロープを登攀し、斜面を滑降するのであったが、それでもスキーによる滑走は非日常的な体験であり大いに新鮮なものとして受けとめられた。昭和7年(1932年)からは、菅平、野沢、湯沢、志賀高原、赤倉、草津、関、燕、沼尻、五色、霧が峯、池の平といった当時の主要スキー場の積雪情報が新聞に掲載されるようになり、混雑するスキー場風景が毎年の新聞を賑わすようになったのもこの頃からである。一般スキーヤーが増えるに伴い、SAJは競技を補佐し一般スキーヤーを指導する指導者を設けることになった。昭和14年(1939年)に指導者検定講習会を開き11名の指導員が生まれた。以後SAJは競技部門と基礎教育部門をもつことになる。基礎教育部門はSAJ教程を作りバッジテストを行い技術のクラスに応じて1級2級の資格を交付するようになる。これが現在の基礎スキーの始まりである。とはいえ一般大衆にとっては、用具の費用やスキー場への旅行の費用、さらに休暇の期間を考えるとまだまだ高嶺の花であった。